松本深志高落雷遭難から40年

信濃毎日新聞 掲載

平成19年08月02日(木)


 北アルプス・西穂高岳独標付近(二、七〇一b)で一九六七(昭和四十二)年、集団登山中の松本深志高校(松本市)二年生が落雷に遭い、十一人が死亡、13人が重軽傷を負った遭難事故から一日で四十年がたった。現場へは、同校の同窓生や坂巻道弘校長らが慰霊登山をし追悼。同校でも、遺族や同期生らが慰霊碑の前で手を合わせた。

 20人が追悼登山

 午前十一時すぎ、独標東側斜面の岩場で行った追悼式には、県外に住む同期生を含め、二十人近くが参列。黙とうの後、同校に伝わる「祝記念祭歌」を静かに合唱した。富士山までも見渡せる真っ青な空に、「四十年前の落雷が信じられない」とつぶやく人もいた。

 今回が十四回目の慰霊登山になる鈴岡潤一さん(57)は事故の際、重傷を負った。現在は母校の社会科教師で、山岳部顧問も務め、部員三人と三十一日から入山した。

 当時、四十六人の登山隊の最後尾近くを歩き、独標北側斜面の鞍部(あんぶ)近くで落雷に遭った。背中から右足にかけて雷が走り、はじき飛ばされた際に右耳を裂傷。後ろに居た男子生徒は死亡、前に居た教師は重体となった。

 生き残った幸運をどう生かせるか自問してきた-と鈴岡さん。「山岳部の生徒が昨年かち追悼登山を始めた。彼らが事故のことや命の大切さを受け継いでくれることが何よりうれしい」

 同期生の牧野恵子さん(56)=仙台市=は同期の写真と同校創立百周年の記念DVDを持参した。「みんな元気にやってるよーと、報告するのが私の役目。これからも慰霊登山を続けたい」と涙をふいた。

写真:松本深志高校の落雷遭難事故から40年。北アルプス西穂高岳独標で行われた追悼式=1日午前11時20分

 

 今も語りかける11人の仲間

 一日午後一時半。松本深志高校の西穂遭難慰霊碑前で、今年も遺族や同窓生、在校生ら約百人が参列して慰霊祭が開かれた。十一人の命を奪った落雷遭難から四十年。この日参列した遺族は八家族十一人。亡くなった生徒の親たちも多い。引率した教師たちも、当然現役から退いている。高校二年で亡くなった十一人と同期生だった私も慰霊祭に参列した。(大西健文)

 あの日、悲報を知ったのはタ方。激しい雷雨で家に飛び込み、テレビのスイッチを入れる。友人の名前が画面に流れていた。学校に駆けつける。重苦しい雰囲気の中、新たな情報は入らず、最終電車で大町市の自宅へ引き返した。

 翌日は朝から学校に待機。午後二時ごろ、自衛隊ヘリでシュラフに包まれて運ばれてきた仲間の遺体を、担架に乗せて校内に運んだ。

 収容できなかった三人の遺体を除く八人の遺体が並ぶ講堂で夜の「お別れ式」。激しい雨。雷が学校付近を襲い、電灯が消えた。女生徒の悲鳴…。長男成幸君を亡くした堀江久美乃さん(81)=松本市蟻ケ崎=は「成幸たちが、雷を連れてきた。あの日を忘れることはない」と話す。

 堀江さんは、十年前に夫に先立たれ、いまは一人暮らしだ。「『おなかがすいた』という声で、寝床から跳ぴ起きたことがあります。夫ではなく、成幸の声で・・・。まだあの子は成仏できないのだと思いました」

 成幸君と私は同級生であり、同じ部活動の仲間だった。私たちのクラスから登山に参加したのは七人。五人が死亡した。重傷を負った一人は進級できず、残る1人は翌年、命を絶つた。七人の級支全員が私達と一緒には卒業できなかった

担任で登山の引率者でもあった横内冏(あきら)さん(73)=松本市筑摩=は、私たちを卒業させると、飯田高校に赴任。その二年後には三十代半ばで教職から身を引いた。「場所は変わっても、子どもたちを教えていると、亡くなった生徒の顔とダブって見えた。そんな気持ちで教師を続けるわけにはいかなかった」。いまは幼稚園長として、幼い子どもたちを見守る。

 登山に参加したある仲間は「忘れているよ」と、「あの日」を語らない。悲惨な現場、数秒の差で分かれた生と死…。四十年の歳月は流れても、「あの日」は重くのしかかる。

 「ポッカリ空いた胸の穴は埋められません」と堀江さん。命のはかなさとその大切さ。親たちの涙は悲しく、十一人の仲間たちが少年のままの姿で語りかけてくる。

写真:西穂高遭難慰霊碑に献花し、手を合わせる遺族=松本市の松本深志高校


 松本深志高生の西穂高岳落雷遭難

 1967年8月1日午後1時40分ごろ、松本深志高2年生の集団登山パーティーが、西穂高岳山頂から下山途中の独標(第1独立標高点)で落雷に遭い生徒11人が死亡、生徒と引率教師13人が重軽傷を負った。集団登山に参加したのは、引率教師5人を含む計55人だったが、西穂に登頂したのは計46人。集団登山のあり方や気象判断をめぐってさまざまな議論があったが、県警は引率者の過失責任は問わなかった。